
思えば、開店まもないマル天の4階でひらってきてから幾星霜。
ようやく出来ましたよダックス。

(上2枚:クリックで拡大)ごらんのとおり、ノリとしてはペルスまんまなんだけど、“中南米風に仕上げる”という所期の目的は達成できたような気がするのでまあよしとすんべ。
というわけで、祭への課題がひとつ片づいた。
他は……いやまあそのこれから努力しま(ry
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- 2008/09/16(火) 03:20:32|
- 工作(模型)
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最近
ポン引き氏がアツい。
なんかもうその元気をオラに分けてくれ!と言いたくなるくらいアツい。
いや、おいらもアツいんですよ。
いろいろ尻に火が点いてるって意味だけどなorz
彼の地のアツさとは例えば、ここ数日
“レイアウト離れ”で盛り上がっていることについてである。おかげさまで仕事の合間の慰みにはなってますよ。おいら的にも関心事ではあるし、かといってゲージ論みたく荒れることもないだろうから(w)、その点安心して見ていられる議論だというのもあり。
で、つい魔がさして、書いとかないと忘れちまうから、とばかりに向こうのコメ欄にちょろんとしたためておいたことの詳細(ってほどでもないが)を一席。
レイアウト離れとはいうけれど、もともとレイアウトをつくるに到るモデラーがわが国ではどちらかといえばマイノリティなのは事実。それに絡んで、“レイアウトの普及”についてなにかと気にする向きは、ポン引き氏にかぎらずときおりお目にかかる。
元をたどれば、そういう方々の十中八九はTMS―もっと直裁にいえば、
やま氏の啓蒙が強烈に刷り込まれているがゆえ…といって差し支えないとおもう。
まあとにかくTMSは創刊いらい、少なくともやま氏現役の頃まで、
『レイアウトこそが鉄道模型の醍醐味、鉄道模型に手を染めたからにはレイアウトをつくるべき』というようなことを、折にふれて説きつづけてきたわけである。
とくにNゲージの登場に際しては、『Nはレイアウトのためのゲージであるから、車輛にいたずらに手間をかけるべきではない』という持論をタテに、N車輛の超絶的なスクラッチ作品(平石久行氏のC57とか大山宏道氏のKSKのCタンクとか)が誌上にあらわれるたび、
「(読者は)真似をしなくてよい」といちいち
よけいなことをいう釘を刺すのを忘れなかった。
で、鉄道模型誌はTMS以外にもあるわけだが、後発2誌にしても、初代のカシラはともにTMSを読んで育ち自らもレイアウトづくりの実績がある人で、そして自分の雑誌の上でもレイアウトに対する啓蒙は、程度の差こそあれど何かしらの形でおこなっていた。
それゆえ、ふた昔くらい前までは、紙メディアにのみ関していえば、
「いつかはレイアウトをつくるべきなのです」という空気は明確に存在していた。
ところがところが。
先づは、雑誌の作り手の世代交代がやってくる。
やま氏が病に伏し、そして後発2誌のカシラも、おそらく地面モノとは縁が薄かろうとおぼしき人に代わって久しい。
さらに今はもうウェブの時代だからして、雑誌なんか読まねえやつは増える一方。
そうともなりゃ、レイアウトに関するやま氏イズムの伝播力も弱まって当然なわけでね。
レイアウト離れってもんがかりに現実なのだとすれば、そういった辺りも理由のひとつなんじゃないかと思ってみた次第で。
ただ、それに対していたずらに目くじらをたてるのもどうか、とも思う。
TMSをがっつり読んで育った一定以上の年齢のファンというのは、一見ゴリゴリの車輛工作派にしか見えないような人でも、じっさいに話をしてみると、レイアウトへの夢なり作らない言い訳なりが何かしら口をついて出てくることが多い。
そういった事象を目にすると、ある意味やま氏の啓蒙は功を奏しているともいえる。
だが、裏をかえせば
「いつかはレイアウトをつくらなきゃつくらなきゃつくらなきゃ」ってな強迫観念にさいなまれ続けてる人も結構な数いるんではないか。一定以上の年齢層には。
そういう呪縛にとらわれなくなりつつある今どきの方が、個々のモデラーにとっては幸せなことなのかもしれない。
結果としてこの先コレクターと車輛偏重主義者しか残らない、にしても。…すいません。やっぱ俺そんな未来はヤです。ところで、
サマンサ氏のコメを感心しつつ読んでいるうちに、おいらは分類上明らかに“見つめる”型なのだと判明し、微妙にフクザツな気分だったり。思い起こすに、ロケハンと称してフィールドを歩いていても、たしかに観察のしかたが一極集中ロックオン!なのだ。
だからいまだにKBMCのモズールが一個も作れないんだネ!きっと(ぉ
- 2008/09/09(火) 01:05:17|
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